皆様から頂いた応援メッセージを掲載いたします
娘が医学部生です。人ごとではありません。
また、医学部生の母親でなくても大きな社会問題です。
微力かつ少額ですがご寄付をさせて頂きたく存じます。
K.T様
娘、日出美は、麻酔科医でしたが、悪性高熱症の患者さんと二度も出会ったことから研究の道を志し、6年間の研修を終えると同時に大学院医学研究科博士課程に入学しました。2014年4月のことでした。
悪性高熱症とは麻酔を契機として起き、死に至ることもある難病です。その原因等は未だ解明されていません。
動物が大好きだった娘は動物実験をしたくありませんでしたし、患者さんにも筋肉を切り取るという負担をかけたくないため、生理学教室との共同研究という形でiPS細胞を用いる実験を開始しました。iPS細胞を用いて悪性高熱症を解明するという研究は世界でも初めてのことでしたが、これらのことが娘を死へ導く要因となります。生理学教室との共同研究ということは研究仲間が居ないことを意味し、世界初ということは的確な指導を受けられなかったことに繋がるからです。研究が進むにつれて麻酔科の高度な知識が必要となるため、他科の指導者では対応できなかったようです。
娘は大学院生として毎日夜遅くまで研究に励みながら、麻酔科医としての仕事も続けていました。毎週金曜日の静岡の病院への派遣、月2回のICUでの当直、その他、都内やさいたまの病院からの当直も引き受けていました。人さまに気を遣う娘は大学病院以外の仕事も断ることができなかったからです。それらの仕事を終えた後も必ずラボに行って実験を続けていましたので研究開始から亡くなるまでの一年半、娘には一日の休みも無く、日々の労働時間も12時間を超えていたと思われます。
そんな中でも娘は麻酔科専門医試験に合格し、研究開始からわずか一年の研究要旨が米国の麻酔科学会から優秀演題として認められ、サンディエゴの学会で口頭発表することが決まりました。しかし、このことがまたしても娘を追い詰めることになりました。実験結果が自分の思っていることと反対になるので実験量を2倍にすると言って更に無理をするようになったからです。孤独の中、研究に没頭した娘は研究と自分の命を引き換えるようにして自死しました。学会発表のひと月前のことでした。
私は、娘の死の直後から「私が娘を殺した」という強い自責の念によって、重いウツ状態となり、心身ともに正常ではいられなくなって娘の死後を守る行動をなにひとつ取ることができませんでした。
現在は娘の生きた証を残すために短歌を詠んでいます。
2024年6月、『亡き子とともに生きるー自死遺族日記―』と題した歌集を自費出版しましたが、その帯に下記の文を記し、ささやかな願いを訴えています。
国の機関、あるいは医師会には、娘のような立場の者を救える機関、たとえば研究医としての悩み相談室の開設など、早急に組んでほしいと願う。医師の働き方改革の一環として、研究時間の制限を設けてほしい。また、研究に専念できるよう、医師としての仕事を遠慮せずに断ることができる自由を与えてほしい。娘のようにまじめで一生懸命になりやすく、人に気を遣うタイプの人間が追い詰められなくてもすむ環境を一刻も早く整えてほしい。
日出美の死は過労死と言ってよいと思うが、自分の意思で実験を続けたのだからどこへ相談することもできないでいる。人間関係で辛いとは言っていたが、実験が辛いとは一度も言わなかった。
何事にも懸命に努力して取り組んできた日出美、三十二歳で亡くなるのなら「そんなに頑張らなくてもよかったね。もっとゆっくり自分の好きなことをするとよかったね」と言ってやりたい。
日出美の尊敬する人物は「ガリレオ・ガリレイ」、座右の銘は「人事を尽くして天命を待つ」だった。だから懸命に生きた。(亡き子とともに生きる ―自死遺族日記―
本文より)
日出美といふ人間の形ここに在りたましひ再びこの子にもどれ
これの世にありふれてある生と死に生かされて日出美の母となりけり
子とともに在るあかしとやこの頃を二輪づつ咲くさくらんぼの花
自助グループ自死遺族すまいる所属
神奈川県内の自死遺族の集い(わかちあいの会)スタッフ
仰木 奈那子 様
郵便局員過労死家族会の共同代表をさせていただいております。
中原のり子さんには過労自死した夫の裁判などで大変お世話になりました。
今度は私がサポーターとして支援させてください。